路地とあかり


路地のどんつき

 小さな平屋のつらなる路地を歩いたことがありますか。おうちライトの会場には、一部工場を含む4軒の平屋が建っていましたが、うち1軒は、昭和のはじめに焼け落ち(現在裏庭)、3軒が現存しています。路地から続く玄関庭も路地の跡、門から右手にも細い路地跡があります。

 大正〜昭和に建てられた3軒の家は、3畳の土間つき板間と、押入の付いた6畳または4畳半の居間のふた間の戸建です。長屋建だったら,、また隣家の土蔵が火力を抑えてくれなければ、昭和のはじめの火災で延焼していたことでしょう。路地の北側、今では元散髪屋さん(路地の大家さん)の物干し場となっている空地にも、20年前は1軒の平屋があり暮らしがありました。東側は当時から空き地だったのですが、それは共同井戸と共同便所の跡と聞きました。 

 元散髪屋さん(路地の大家さん)の裏庭にも、もう1軒あったということですから、間口80cmの路地の奥に、共同井戸・共同便所を囲んで、6軒の平屋が建ち並び、賑やかな暮らしがあったのです。

 「おうちライト」は、通(とおり)に面した大きな「町家」ではなく、裏借家のイベントです。織屋などの有徳人に対し、賃機(ちんばた)で生活を支えた名もなき職人たちの「路地」と「織子の暮らし」を想像いただければ幸いです。


姥ヶ懐

 会場周辺には姥ヶ寺ノ前町、姥ヶ北町、姥ヶ西町、姥ヶ東西町、姥ヶ榎木町と姥(うば)を冠する町が5か町もあります。明治くらいまで会場の桐木町(きりのきちょう)を含んだ一帯が姥ヶ懐(優婆懐)あるいは姥ヶ原と呼ばれていた名残です。

 古地図を見ると柏野(かへの=かえの)の東南の端に当り、姥ヶ懐の東、千本通りから東3筋目以東が紫野です。北野と紫野の間の高台が柏野で姥ヶ懐はその東斜面にあたった場所のようです。現在の北区柏野(かしわの)学区からみるとかなり広い地域です。なお柏(かえ=かへ)はヒノキなどヒノキ科の木の古名です。

 空海が嵯峨帝期の819年に光明遍照院(石像寺)を建立、次いで821年に千本五辻までの境内を持つ大聖歓喜寺(現在の雨宝院)を建立したと伝えられています。大聖歓喜寺は応仁の乱により焼失後荒廃しましが天正年間に雨宝院のみ、先(1542年)に移転再建された本隆寺北の現在地に再興、かつての大聖歓喜寺の跡地を「うはふところ」と呼んだのではないでしょうか。天正15年に現在地に移転した妙蓮寺の寺領目録に天正14 年(1586年)優婆懐 の上畠1 畝25歩とあり、当時は畑地化していたようです。天正以降の秀吉による都市再開発に伴い、姥ヶ懐も次第に宅地化が進み、道路を挟んだ両側町として6か町が成立しました。

 道路に面した持家や表借屋の裏は空閑地となっててたと思います。江戸時代末期から明治にかけて人口の流動化がおこり、職人の生活の場として、空閑地は道路と細い路地で結ばれた裏借家や裏長屋として開発されました。西陣の衰退による貸地の売却、また防災の点からもこういった路地で接続された裏借家などは減ってはいるものの、まだまだ残っています。